2010年5月9日日曜日

脳というアンテナ。



つい、先日の子どもの日で、夏が来ました。立夏です。

んとまぁ、夏とはいえ、旧暦のカレンダーでは、本日、5月9日は、3月26日、弥生の月です。弥生とは、『草木がいよいよ生い茂る、「いやおい」の月』です。

上の写真は、春にベランダで植えたダリアに本葉がでてきたところ。今年から、植物と一緒に季節を感じてみようと思い、他、サルビア、カモミール、ひまわり、千日紅、それから、ロケット、リーフレタス、ねぎなどを栽培中です。

植物を育てていると、んとまぁ、なんだろう、生命の不思議を感じます。

種、というか、粒は、まぁ、豆粒というか、粉というか、そういう固体なんだけれど、土に埋め、水を与えて、太陽にあてれば、芽がでてきて、伸びていく。この「反応」は奇跡としか言いようがない。

本当は、人はどこかで、この奇跡を知っているはずなんだけど、不安や、恐怖で、なかなか見る事や感じることが出来ずにいたりする。かという自分もそうだったわけで。。。

世の中、いろんな「不安材料」があるわけだけど、それとシンクロしてくのは、人が「不安」や「恐怖」という低い周波数帯、に自分の脳という「アンテナ」を合わせがちにしてしまうからなんだろう。

人は、もともと、弱肉強食界の「動物」なので、そういう脳の構造になっている。だから、不安や恐怖に自分自身、マインドセットしてしまうのは、そういう「くせ」があるのだ。

まぁ、その「くせ」をキリスト者では、「罪」、仏教では「煩悩」、また、心理学者は「無意識」と言うわけなんだけど。

そこでだ、そういう世にあふれた「不安材料」から、自分を解放するには、常に意識すること、と思い始めました。「自然」は「意識すること」を手助けしてくれます。

生命とか、地球とか、宇宙とか、そういう「奇跡」という次元に「高い周波数」に自分の脳の周波数、つまり、脳波のチャンネルをあわせていることになる。そうすることで、「低周波数の流れ」が来ても、

「あぁ、これ、ヴァイブ悪ぃ〜」って判断が出来てくるのではないか、と踏んでいる訳です。

まぁ、でも、世の中は多種多様、いろんなチャンネルがあって、いろんな受信者がいるわけなので、まぁ、僕の場合は、目に見えない「もしかしたらいるかもしれない」とか、「分かるかもしれない」という事物、というか世界観、というか奇跡(まぁ、音楽も目に見えないんで)を、3次元的に理解できていけばよいかな、と思う訳です。

2010年5月1日土曜日

遊んだ、感じた。

4月(旧暦では3月)は、仕事も自主制作以外に特になく、予定も特にあったわけじゃないので、好きに遊んでました。

まず、上旬、新宿に連句の会へいく。連句は、室町時代の座の文化が発祥で、五七五の俳句ではなく、誰かが五の句を読んだら、別の人が続けて七の句を読む。ある程度のフォーマットはあって、どこどこで春の季語をいれる、とか、季語なし、とか、月を入れるとか、あるわけです。先の句会では、俳人五名あつまり、(まぁ、僕も含めてですが)、句をねり、一つの世界、(先生いわく、ミクロコスモス)をつくりあげました。う〜ん、なんというか、春、というか、春。やっぱり、季節感を出しながら、まぁ、この句のこのあたりは、ど〜だこ〜だ、教えてもらい、先生にも、時には、そりゃぁ、変じゃ、なんと、言いつつ、3時間はあっという間。その後、新宿で久しぶりに飲み、その後、さいきん知り合いになった大塚の掛け軸屋さんへ行く。

そこで、出会った、デビット勘助さんという、アメリカ人尺八奏者の方と出会い、次回コンサートへ行く事を約束し、その後、大塚で飲む。

次の週、お香へ。香は簡単に言うと三種の名前のついた試香を匂った(聞いた)後、アットランダムにでてくる香の名前を当てる、お遊び。当たる当たらないわけではなく、その席が香を通して一つになることが、お香の醍醐味なんです。

この香ですが、これまた室町の座の文化です。

ところで、座って、なんだろう、と最初は思っていたが、座とは、今の言葉でいえば、サークルなんですね。身分制度があった時代に、香や句をとおして、個人がとけて、座や席という集まりが一つになる、ことで、身分を超えたおつきあいをしていたわけです。

こういうことが日本の階級社会にはあったわけです。つまり、断絶した階級ではなく、実にゆる〜〜く形成されていたのではないかなぁ、、、と、感じます。とくに根拠はないですが、なんとなく、市民革命が日本で起こりえないのは、なんとな〜く感じる。

まぁ、そういう何となく感、というものは、目に見えないものなので、説明はできませんが、、

日本舞踏で見る事ができました。

また、その件は、後日、また。。。